シェーン・ガラース、ドラムそしてB’Z、日本でのツアー生活について話す
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シェーン・ガラースの Trend & Chaos(トレンド&カオス)との独占インタビュー。音楽溢れる生い立ち、日本のスーパースターB’zとの長年に渡るドラマー生活、そしてエキサイティングな新しい企画について。
デニス・マーティン:Trend & Chaos のインタビューに応じてくれて、ありがとう。私たちの新しいサイトのローンチに向けて協力してもらえて嬉しいです!
あなたと僕にはユニークな共通点がある。日本のアーチストたちと20年にも渡ってレコーディングやツアーをしてきたという、お互いに共通する経験だ。同じように日本で仕事をしてきたあなたの体験や視野をこうやって聞けるチャンスは素晴らしい。
あなたはカナダ出身ですね?
シェーン:ああ。イニスフェイルという小さな町で育った。カナダのアルバータ州中央部のロッキー山脈が丘陵地帯と接する場所。
デニス: あなたと私は、やはりカナダ出身のロッカー、ピート・ソーンを通して知り合いました。あなたたち二人は近くで育ったのに、私たち3人で六本木でメキシカン料理を嗜んだ晩まで、ちゃんと会ったことがなかったのが、おかしいですね!
シェーン:本当に、奇妙なことに、ピートと僕が最初に出会ったのが東京だったんだ。僕たちには多くの共通の友達がいてね。年齢も同じ年頃だし、同じカナダの都市に住んでいたこともあったのに。
デニス: では、質問です。なぜ、ドラム? どうしてドラマーとしての道を歩むことになったのでしょうか。
シェーン:僕はいつも音楽に囲まれて育ったんだ。母親がいつも音楽をかけていたし歌を歌っていた。ドラムがどうやって機能するのかを母から教わった日のことを、僕はしっかり覚えている。家には大きな古いステレオ・キャビネットがあって、8トラックのカセットとターンテーブルが居間に設置されていた。それに、家の地下にはジュークボックスまであった。母はいつも、リトル・リチャードやファッツ・ドミノやチャック・ベリー、レイ・チャールズ、エルヴィスなどをかけていたんだ。
初めて受けたドラム・レッスン、僕は明確に覚えている。ジェリー・リー・ルイスの曲「Great Balls of Fire」のドラムキットのメインのボイスを母が教えてくれたんだ。母はハイハットの8分音符パターン、2と4のスネア、バスドラムの1と3を見せてくれた。それはなんと、いまの僕が毎日、演奏しているのと同じグルーヴさ!(笑)
それは僕が6歳か7歳くらいの頃だった。家の地下にはピアノがあってね。父はホンキートンクのピアノとシュトラウスのワルツにかなり凝っていた。僕の最初の耳のトレーニングといったら、その古ぼけたアップライトのピアノをいじくりまわすことだった。両親はピアノのレッスンも僕に少しばかりさせたが、僕はあまり乗り気ではなかった。僕はただ、ロックしたかったのだと思う。
ドラムキットのボイスがどう作動するのかを母に説明してもらった直後のこと。僕のいとこが’、KISS の ”100,000 Years”を、僕に聴かせたんだよ。曲の間中、僕はワオ!と言いっぱなしだったことを思い出すね。その音楽、そしてスペクタクルな光景、血や火、僕は即座にキッス・フリークとなった。
僕の友達もやはり同じ頃に、KISS に凝りだしたからね。僕たちは自分たちのキッス・バンドを始めて、Kiss Alive 1をそのまま真似ることとなった。僕の母が、僕たちのために衣装をこしらえてくれて、メイクアップは自分たちでやった。友達の地下室で自分たちのコンサートを企画してチケットまで売ったのさ… 僕たちはしっかりと、実業家みたいなことをしてたのさ!ははは!ドラム台用にテーブルをおいて、僕はアイスクリームのバケツを叩くのさ。ホームメイドのギター、血を吹いたり火を吐いたり…なんでもかんでもありさ!
デニス: ターニングポイントとなった時期はあったのですか。岐路に立ち「これが、自分の人生でやりたかったことだ」と決めた瞬間はありましたか。
シェーン:Kissが、エドモントに’Love Gun’ツアーでやって来た。9歳だった僕は、コンサートに連れて行って欲しいと両親に頼みこんだ。親はステージ中央、前から18番目の席を買ってくれた。その日が、僕にとって、音楽キャリアの人生でもっとも重要な日となったんだ。コンサートの途中に、僕は決心した。これが生涯、僕が人生でやりたいことだ、とね。僕のDNAの中でそれをしっかりと感じたんだ。僕はプロのドラマーになるしかない、それしか道はないと!
コンサートが終了した瞬間から、僕の執拗なドラムセットへの追求が始まった。欲しいと両親に必死に頼みこんだ。親は最初これは一瞬の高まりにすぎず、ドラムを与えてもそのうち部屋の片隅でほこりをためるだけではないかと懸念してた。だけど、僕は虜になっていた。ドラムセットを得ることを諦めはしなかった。ひざまずいて、手を合わせて、必死に母親に頼みこんだことを、僕はしっかり覚えている。
驚くなかれ。僕の10歳の誕生日、両親は僕を地下に連れて行った。僕の目の前には、僕のモノとなったシルバーの5ピースの ‘Maxwin’ のドラムセットが置かれていた。僕はKISSの「デュース/Deuce」をかけて、それに沿って演奏しだした。それは頭の中ではもうすでにちゃんとやってきたことだった。おんぼろなスタンドの上につけられた安い10インチのクラッシュをあまりにハードに叩きつけて、ひっくり返してしまったのを覚えているよ。
デニス: イングヴェイ・マルムスティーンとの仕事が、プロとしてのあなたの最初のギグだったのですか?若いミュージシャンがいきなりそのような仕事につくとは驚異的ですが、どうやって得たのでしょうか。
シェーン:Deen Castronovo がギターセンターの“Drum-Off” 決戦の審査員をしていて、彼が推薦してくれたんだ。
デニス: イングヴェイ・マルムスティーンとの仕事は、どんな体験でしたか。
シェーン:インギーとのすべての体験は、まさに人生を変えるものだった。僕は多くを学んだ。それは僕にとって初めての体験、国際的なレベルでツアーすることがどんなことかを初めて味わう期間となったわけだ。著名なプロデューサーのクリス・タンガリーディスと「マグナム・オーパス (Magnum Opus)」をCriteriaスタジオでレコーディングした。ノンストップで、約2年半、僕たちはツアーを続けた。アメリカのほぼ全都市、ヨーロッパ、そして日本の14都市でプレイした。
日本をツアーする頃には、「マグナム・オーパス」はプラチナ・アルバムになっていた。どこに行ってもファンが大熱狂して大騒動になるのを見るのは凄かったね。
デニス:日本のバンド、B’zとは、どのようにして一緒に仕事をするようになったのですか?
シェーン:僕は90年代、マイケル・シェンカーとのギグでLAのハウス・オブ・ブルースでプレイしていた。それが運命のきっかけとなった。 B’zが、LAでレコーディングしていて、彼らはそのコンサートにたまたま来ていた。2~3年経って、B’zがドラマーを探している際、彼らは僕のことを問い合わせてくれた。
僕はオーデションに出向き、そのあと東京のレコーディングスタジオでのオーデションにも行くことになった。なので、日本に飛び、結局3曲をレコーディングすることになり、そのあとにギグを得たんだ。
デニス: 彼らとはツアーやレコーディングをもう17年(!)も続けているのですね。それは、すごい。最初のツアーはどんな感じでしたか。
シェーン:ああ、もう、17年になると思う。B’zと彼らのソロで、合計130 曲はレコーディングで収録したと思う。最初のツアーは、どのレベルにおいても、ど肝を抜かれるようだった。ただでさえ長期間、日本に住むことだけでも、カルチャーの視点から真のパラダイムシフトだった。スタジアムの観客相手に演奏するのは驚異的だ。
デニス: 国際アーチストとして日本ツアーをやるのと、日本のアーチストと日本ツアーをやるのでは、大きな違いがある。僕の視点としては、それを十分に理解するには体験した者でしか分からないものがあると思う。プロセスについて話してもらえますか。
シェーン:ワォ。その話題だけで、別の一つのインタビューになってしまうよ。 LOL! 日本は僕にとって2番目の故郷として馴染みやすい場所だった。奄美大島で少しの間、暮らした以外は、僕は東京に住んでいた。とても美しい近代的都市。最初は少しばかり調整が必要だったけれど、すぐに日本の文化の基本的な習慣を学べた。ほとんどは行動の訓練だった。周りの人たちに囲まれているときにどうやって行動すべきか、敬意が元なっている多くのルールがあるようなので、西洋人はまず、それを理解しなくてはならない。レベルの高い敬意や尊敬があり、彼らと接するときにはそれをちゃんと僕たちも示さないとならない。僕はこれに関しては、すべての生活において意識しなくてはならなかったし忍耐力を持つ必要もあった。
これは、あまりに深い質問だが、簡単にまとめて答えよう。西洋文化は、人生に対し臨機応変で即効的なアプローチで順応している。僕たちは多くの点で、ぶっつけ本番でやっちゃう感じだ。でも日本の場合、もっとも基本的な事柄にさえ、こうあるべきという模範がある。それらは幼い頃からプロセスとして教えられることなので、彼らのDNAにしっかり刻み込まれているんだ。誰もがちゃんとそれらのポリシーに従って行動しているのには魅了されるね。
その直接的な結果として、彼らの社会は時計仕掛けのようにしっかり規則正しく機能するんだ。彼らのものは全て、ちゃんと機能する。しっかり彼らは突極的に原則を守るからね。そんな彼らだからこそ、結果として、彼らは経済大国となったんだ。問題を抱えなかったわけじゃない。いつも模範となる形が存在するわけではないからね。衝突に直面したとき、西洋人にとっては簡単な回避方法になることが、模範通りに対応する彼らにとっては大きな山のチャレンジとなってしまうことだってある。でも、ほとんどの場合、彼らはみんなが同じ考えで同意すれば、最終的には彼らのシステムはしっかり成功を収めるってことを分かっているからね。
デニス: もちろん、言葉の壁もあります。でもそれ以外に、日本人ばかりの環境の中でチャレンジとなったことはありますか。
シェーン:日本のミュージシャンはコラボするにファンタスティックだ。彼らは完璧にプロに徹しているし、プロのミュージシャンのほとんどは技術をしっかりと学んできた人たち。彼らは西洋音楽に好奇心を抱いてくれていて、いつも新しいアイデアを試すことにオープンでいてくれる。大抵、彼らは学業をしっかり学んできたし、高度な読書家だ。まさに不可思議だが、彼らはアレンジや分析的なことに関しては、絶対、ミスや間違いをおかさないんだ。それは何に関しても何をやるんでも、彼らのカルチャーにおいては先天的なものだ。この話題に関しては、それだけで一つの別記事になるね。
だが、基本的なこととして、彼らはただ、しっかり覚悟のある確固たる働き者で、小さいときからそれは彼らの内面において築かれていったもの。だから、彼らが何かをやるとき、彼らは諦めてサジを投げたりはしない。それには、かなり当惑させられるよ。
彼らはいつでも十分なリハーサルをしたがる。どんな間違いも起こるチャンスを与えないように、しっかりリハーサル。それは、バンドとして活動するときの西洋のミュージシャンたちと日本のミュージシャンたちの根本的な相違の一つだ。
そんな彼らの考え方や物の見方は、素晴らしい価値を持つものである。でもそれと同時にある程度、それは彼らを抑止するものにもなり得る。ときには、リハーサルをあまりに多くやりすぎて、魔力を失い、ミュージックやライブパフォーマンスで自然に起きるマジックを漠然とさせてしまうことだってある。でも B’z は、長年、多くのハイレベルのミュージシャンたちとの仕事を通し、その良いバランスを見出している。
デニス: あなたは日本のファンたちとコネクトできたようです。東京であなたと一緒に歩いていたとき、走る車の窓から女子が顔を出して、あなたの名を絶叫したのを思い出す!
シェーン:ははは。ファンの認識とサポートにおいて、日本は本当にスペシャルな場所。彼らは興味ある音楽とそのアーチストたちを手を広げ受け入れてくれる。僕が体験した世界中どの場所よりもはるかに最高に抱擁する。
デニス: B’z の初の英語のEPをプロデュースすることになったあなたですが、どういうプロセスで?チャレンジは?
シェーン:ああ、あれは楽しかった! 日本では基本的に「プロデューサー」という用語の意味が、違う風に使われている。西洋でいう「プロデューサー」は、日本では「アレンジャー」と呼ばれているものだ。あの企画ではいろいろ違う役割があった。ベッドトラックの何曲かを再録することから始めた。ドラムとベースをね。ギターはほとんどそのままキープした。そして英語の歌詞を書き、コウシ・イナバ(稲葉浩志)とヴォーカル・トラックをリカットした。ほとんどの作業は、僕のスタジオ(Crumb West Studios) でやった。コウシ・イナバとヴォーカルトラックをやったときは特に楽しかったね。何しろ彼は全てを英語で歌ったわけだから。そして僕はミキシング、そしてマスタリングを才能溢れるコーリー・チャーコとやった。
デニス: 長年、日本の最もビッグなロックバンドの一つであるB’z とツアーをやってきたあなたには、思い出に残るツアーのエピソードがあるはずです。クレイジーなおかしなことなど、忘れられない思い出は?
シェーン:いろいろあって、どこから話せばいいか、分からないよ。
でも13回のアリーナツアーが始まった2日目に、足首を折った。あれは忘れられないよ。ショーが終わって、ドラム台から降りてステージの前方へと進んで礼をするときだった。スネーク(patchbox)を踏んで足首が曲がった。怖い、バリバリというサウンドが大きく鳴り響いた。ただごとでないとは思った。翌日、レントゲンをとって骨折と診断された。左足でなかったのが幸いだ。だが、折れた足でツアーをやり遂げるのはチャレンジだった。
デニス: 日本各地を何度もツアーしてきたシェーン。どの都市がお気に入りですか。
シェーン:福岡、のんびりした雰囲気が好きだ。奄美大島はサーフに。北海道は食べ物。京都は歴史の面と、その美。大都市では、東京が世界一、僕の好きな都会。なんでもあるから。
デニス: 日本はとても美しい国ですが、訪問する人にオススメの場所は?
シェーン:京都の鞍馬/貴船の地区は、まさに壮観で、ぜひとも訪れるべき場所だ。そして石垣島は、僕が生涯見た中で最も美しい海と岩礁がある。鎌倉はとても美しい地区で、東京からも近い。岐阜、群馬、宮崎、奄美大島、新潟、北海道は、全て見るに素晴らしい場所だ。
デニス: “シェーンのマジック・キッチン”以外で、好きな食事スポットは?
シェーン:オー、たくさんあるよ。でも2〜3、あげよう。札幌のちゃんこ鍋とラーメン、奄美大島チャーハン、名古屋の手羽先と赤味噌。盛岡わんこそば。日光ゆば。福岡のフグ。
デニス:歳月が経ち、どれくらい日本語はわかるようになりましたか。簡単な言語ではありませんが、あなたは耳が良いようですね。
シェーン:ははは。あれほど長く暮らしていたのに、もっとうまく話せないなんて恥ずかしいね。でもちゃんと日本語会話ができるようになるには、ハードな勉強と献身と忍耐と訓練が必要となる。それに最も重要なのは、学ぶにとてつもない壮大な技能を要する漢字も習得しなくてはならない、ってことだ。
デニス: ドラムメーカーのパール楽器製造会社とも、長い関係を築いていますね。彼らは日本で長年に渡り歴史を刻んできた素晴らしいメーカーですが、ツアーするミュージシャンにとって、パールのようなメーカーからサポートを得ることの大切さを感じますか。
シェーン:ああ、僕は基本的には、生涯をかけてパールのドラムをずっと叩き続けてきたんだ。素晴らしいドラムのメーカーであるばかりか、僕にとって彼らは家族のような存在になってしまった。彼らはツアーに必要なベストのギアを提供してくれて、この上ないサポートを与えてくれる。そればかりか、スタジオ録音の時にも協力してくれる。
デニス: 最近、B’zは過去歴代のサポートメンバーを一新するというニュースを発表しました。17年もバンドメンバーとして続けてきた後、バンドを去るのは感情にも訴える体験だと思います。何千人ものファンにとってもショックなことだったでしょう。
シェーン:ああ。最初はそれを受け入れるのが困難だった。彼らにとっても、長年の歴史のあと、全部を編成し直すというのはビックな動きだ。だけど、彼らはそんな大胆な決断をすることでキャリアを築いてきたバンドなんだよ。だから、将来、彼らが何を決断しようとも、彼らは成功していけると分かっている。僕は彼らに健闘を祈るよ。成功を祈っている。そして、彼らと一緒に音楽を作ってきた素晴らしき歳月を体験できたことに、感謝するばかりだ。
デニス: 最近は、どんな活動をしていますか。何かクールな企画は温めていますか。
シェーン:ああ、ワクワク興奮する多くの企画を抱えている。僕の長年のバンドDiesel Machineのレコード収録を終えるところだ。僕の新しいバンドToque は、今年、レコード・リリースを予定している。そして、 Cosmosquadが発信していく作品に注目して。僕のソロの曲書きも進化中だ。
デニス: 日本にまた戻ることを楽しみにしていることでしょう。日本から離れて、一番恋しく思うことはなんですか。
シェーン:イエス。日本は、僕にとって第二の故郷となった。日本の細かな全てのことを恋しく思う。近いうちに、また戻れることと思う。
デニス: シェーン!インタビューをありがとう。あなたの新しい企画を聞くこと、一緒にスタジオで何かをクリエートしていけることを楽しみにしています。アリガトウゴザイマシタ!オツカレサマデシタ!
シェーン:ドウイタシマシテ。ありがとう。近いうちにまた日本で会おう!
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Live Drum Cam footage from ‘Fireball’ by B’z.
Live Drum Cam footage from ‘Fear’ by B’z.
‘Shut It’ Play Along from Diesel Machine
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